「広告ではモノが売れない」という言葉は、微妙に的を外しているように思う。ここのあたりを自分なりに整理しておかないと、あらゆる施策に影響を及ぼす。

「広告宣伝費は、削減すべきコスト」となり、「事業を円滑に推進するための投資」という認識からは遠く離れてしまう。

結果として、然るべきマーケティングコミュニケーションができない状況に陥ったり、逆に全く的外れな施策に無駄金をつぎ込んだりしてしまう。こうなると悪循環で、広告宣伝、ひいてはマーケティングコミュニケーションへの期待が下がり続ける負のスパイラルを生みかねない。これは生活者(お客さま)にとってもデメリットとなるのである。

負のスパイラル

広告宣伝やブランディング活動というものが必要であると皮膚感覚で上層部が分かっている組織ほど、負のスパイラルは生まれやすいと思う。

まり、マーコムが整理されていないために、その企業のビジネスに組み込まれておらず、キチンと評価できない。だけど、マーコムの定性的な重要性はなんとなく分かっているから、施策は実行される。そんな状態では、気持ち良いコミュニケーションなど夢のまた夢でしかない。

広告では

ここで、文の前段を考える。

ここは正しくは「広告だけでは」だと思う。「広告だけでは(モノが売れない)」のである。そんなの当たり前。AIDMAとかAISASとか言われる例のアレである。これは逆に言うと、「広告ナシでは(モノが売れない)」とも言えると考えている。この場合の“広告”については、もちろんマス広告だけではなく、もっと広い概念で捉えないといけない。

明日の広告のなかで佐藤尚之さんも仰っておられるが、Attention(注意喚起)からInterest(興味ワクワク)の順番は、必ずしもこの通りではない。AのまえにIを作ることだってできる。興味があるからこそ、注意が向くというのは自然であると思う。ここらへん、広告が本領を発揮できるところだと思う。

モノが売れない

次に文の後半。

(すでに言い古されていはいるが)生活者はすでにモノを買っていない。ただし、すべてに当てはまるわけではなく、日用品とかにおいては、そこまで言い切れない場合もあるという前提を置いても、やはり「モノ」は買っていない。

イノベーション破壊と共鳴のなかで山口栄一さんは、生活の質を良くするイノベーションをアイステシス・イノベーションと定義しているが、その要素が存在感を大きくしているということだと思う。

モノは、気持ち良いコトや、生活の質が上がるようなコトを起こす媒体でしかない。つまりは、モノが生活者に渡れば万事OKなのではなく、モノを知って、調べて、買って、使って、満足するコトまで想定しなければならないし、提供すべき(求められている)価値の半分は“コト”に宿っている。(もう半分は、技術イノベーションつまりはモノそのものに宿っている)

広告だけ(ナシ)では、コトは起こせない

こう考えると、当たり前のことであるが、ビジネス全体を見渡さないと到底、捉えることができない。

逆に言うと、経営戦略のひとつのファクターとして組み込まれなければならない。そして、それに足るだけのロジックを持たなければならない。で、それを分かりやすく体現する手っ取り早い方法は、「広告宣伝部が営業と同じフロアにいる」ということなのではないだろうか、と思う、今日この頃。